志摩国の統一

16世紀中頃の志摩地域では「嶋衆」と呼ばれる土豪衆が「一揆」と呼ばれる地侍達の地域的な連合組織を有していて、九鬼氏もその一勢力に過ぎなかった。いわゆる「志摩十三人衆」である。兄 九鬼浄隆の死後、その子の澄隆が跡を継いだものの、幼少のため嘉隆が後見役となり補佐していたが、周辺勢力に攻められ志摩を追われた。その後、嘉隆は滝川一益を介して織田信長に仕えるようになり、九鬼家は盛り返す。信長の天下統一戦に水軍大将として貢献しながら、志摩国内の各勢力を従えていき、志摩国の統一を果たす。

第二次木津川口合戦

1576年(天正4年)、大坂の石山本願寺との抗争である第一次木津川口合戦で毛利水軍に大敗した信長は、嘉隆に大安宅船7艘の建造を命じ、1578年(天正6)年に完成させた。この大船について、奈良興福寺多聞院英俊らの手になる『多聞院日記』には「伊勢を出港した大船が堺に入港した。横七間・堅十二、三間もあり、鉄砲の寛通を防ぐため鉄の船である」と記されていることから『鉄甲船』として知られている。同年 11 月6日、大船7艘を率いた嘉隆は毛利水軍と木津川河口にて一戦を交えた。(第二次木津川口合戦) 鉄甲船の堅牢さによって凌いだ嘉隆方が、毛利方の船を引き付けてから大鉄砲による砲撃を加え打ち崩したという。
この戦いの勝利によって補給路を断たれた石山本願寺を降伏へと追い込むことになり、信長は天下統一にむけて大きく前進。九鬼嘉隆、九鬼水軍の名は全国に轟くこととなった。戦後、信長から、志摩国7島と摂津国野田・福島において7000石の加増を得たとあり、この頃から志摩国全体の支配を行うようになったとみられる。
香川元太郎画・今治市村上海賊ミュージアム提供

文禄の役

1592年(文禄元年)の豊臣秀吉の朝鮮出兵には嘉隆は『日本丸』という大安宅船を中心とした大船団を率いて参陣した。長さ百十五尺五寸(約33m)、幅三十九尺(約11m)ほどで大砲3門を装備。甲板上には指揮官の豪華な御殿があり、船首には楠で作られた龍頭が飾られていたという。しかし現地での戦闘は、李舜臣による反撃に加え、同じ船奉行として参陣した脇坂安治や加藤嘉明らとの連携がとれず、苦戦を強いられた。
その後の慶長の役には嘉隆は出兵しなかったとみられる。

九鬼家のその後

1597年(慶長2年)に嘉隆は家督を子の九鬼守隆に譲って隠居。しかし1600年(慶長5年)、関ヶ原の戦いが勃発すると嘉隆は西軍に、守隆は東軍に付き、どちらかが敗れても九鬼家を存続させる戦略をとった。西軍が壊滅すると嘉隆は鳥羽城を放棄して答志島に逃亡。守隆は家康に父の助命を嘆願し了承されたが、守隆からの急使がそれを伝える前に嘉隆は和具の洞仙庵で自害。
守隆は鳥羽藩の初代藩主となり5万6000石を領し、九鬼水軍を率いて大坂の陣を戦い、江戸城築城時は木材や石材を海上輸送した。
1632年(寛永9年)に守隆が死去すると家督争いが起こり、藩内は守隆の三男 隆季派と五男 久隆派とに分裂。幕府の命令によって守隆の遺言通り久隆が跡を継いだが、2万石を削られ摂津三田に移封となった。一方、隆季には三代将軍家光の命により丹波に新たに2万石が与えられ、丹波綾部藩となった。両地ともに海から離れた山間の地であり、これによって九鬼家の水軍力は失われたものの、摂津三田藩主家と丹波綾部藩主家の九鬼家2家は明治維新後も生き残り、両家とも華族の子爵家に列した。

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