九鬼嘉隆 【1542年(天文11年)~1600年(慶長5年)】

九鬼定隆の次男として生まれ、父の死後、九鬼氏の家督は兄 浄隆が継ぎ嘉隆は波切城主となるも、志摩国内での争いで浄隆が死去。嘉隆は織田信長に仕え、水軍を率いて伊勢長島の一向一揆鎮圧、本願寺攻略戦などに貢献しながら志摩国内に割拠していた志摩十三人衆との戦いに勝利し、志摩国を統一。特に大坂湾での毛利水軍との戦いでは、信長の要求に応えて巨大な『鉄甲船』を建造し、毛利水軍に完勝した。本能寺の変後は羽柴秀吉(豊臣秀吉)に従い、九州平定、小田原征伐など天下統一戦にて活躍。朝鮮出兵(文禄の役)では旗艦『日本丸』にて水軍を率いた。1597年(慶長2年)に家督を子の九鬼守隆に譲って隠居するも、1600年(慶長5年)、関ヶ原の戦いが勃発すると嘉隆は西軍に与し、守隆は東軍に与した。どちらかが敗れても九鬼家を存続させるための嘉隆の戦略だったといわれる。守隆が徳川家康の会津征伐に従軍している際に嘉隆は鳥羽城を占拠。しかし西軍の敗戦を知ると嘉隆は鳥羽城を放棄して答志島に逃亡。守隆は徳川家康に父の助命を嘆願し了承されたが、守隆からの急使がそれを伝える前に嘉隆は和具の洞仙庵で自害した。享年59。答志島には現在、嘉隆の首塚、胴塚があり、常安寺には嘉隆の肖像画、嘉隆が自害に使ったと伝えられる短刀などが残されている。

鳥羽城

九鬼嘉隆が九鬼家の本拠地として築城し、1594年(文禄3年)に竣工したとされる。平成20年まで鳥羽小学校があった城山の上部が本丸跡にあたる。三重の天守と、規模の大きな本丸御殿が本丸にはあり、麓には二の丸御殿が存在していた。海に面した水軍の城で、大手門が海側へ突出して築かれたため「鳥羽の浮城」とも呼ばれた。

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